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Qのブログです。星や音楽が好きです。好き勝手に書いてます。2007年12月より開始。
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友達が職場で倒れた。
すごく責任感の強い人なのだ。
日記を見ると自己嫌悪してて
信頼して仕事を託してくださってる上司に申し訳ないと言っていた。
気を張って頑張ると言っていた。

信頼か。
信じて頼る。

最近、人や動物や植物は体(輪郭)で分離しているけれど
チームだと思うのだ。
ひとりでは生きていけない。

人ってすごい。
人のことを喜んだり、悲しんだりできるし、言わなくてもわかったりする。
個として分裂しているがどこかで繋がっていると思う。

人のことも自分のことで自分のことも誰かのことだと思うと
自分のよろこびは人のよろこびとも捉えられる。

困った時に信じて頼ることはよろこびを倍増させることだと思った。

みんなのうれしいを増やすことをしあわせと感じて行動し、
かつ信頼できる仲間を増やしていけたら世界に平和は来るな、と思った。
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今朝、本を読んでいたら思い立って人に会いに東京に行きたい!と思った。
そうしてPCを開くとその人がちょうどいて、話しかけたら返ってきた。
冗談のあと、ある提案をされたのだが私は「考えておく」と答えた。
飛行機を調べたあと「今日は時間ある?」と聞いた時にはもういなかった。
今日は行くタイミングではないということなのかなと思った。
もしくは、提案を受けなかったことが道を塞いだのか・・・?と思う。
しかし、あのときは、考えて、
「すぐにははいと答えられないと思った」のだからそれで良かったのだと思っている。

昨日、バイトをしていたらある社長に
うちの会社で人生を一緒に歩いてみないか、といわれた。
今朝になってから、あのとき「はい」と答えていたらどうだったのだろうかと思う。

出来る限り、現れるチャンスにはピンと来る限り乗り込んでみようと思う。
(昨日は、まだ学生だとか、自分にはできないんじゃないかと言う
思い込みや固定観念が邪魔をした。できないことは回ってこないのだから
ドンドン挑戦してみよう。もっと成長したい・・・!)

更に一昨日、
これはどうしたものだろうと、考えて良い方法が思いつかなかったことがあった。
そのとき、ポンと思い浮かんだ方がいたので、思い切って相談してみた。
すると、とても目からウロコの答えだった。
直接的には書いていなかったが、その人の考えと自分の意見を比べて
自分の考えが「自分」ということに固執して考えを狭めていたことが
うまく行動、考えられなかった原因だと思った。
そして、この人すごいな!と思った。
ひろく目を向けよう。
高校の友達からメールがきた。
「みてみて」

すぐみてみた。

放課後

迷いながらぶつかりながら揺れながら
過ごした日々をいとしく思う

ありえないほど笑ってる放課後を
いつまで覚えていられるのかな

間違ってると思うけど
他にどうすれば良いのかわからずにいる

思っていることは口にできないし
鞄はやけに重く感じる

加藤千恵 タクマクニヒロ『放課後』


センチメンタル。
高校生も私も大して変わらないように感じる。体の中にもやっとして溜まっている何かを、把握できたらスッキリするのかもしれないと思っても、把握するのも面倒くさいし、人に話すのも億劫だし、第一だれが聞きたいと思うの?みたいな。あ、なんだかダークだ。

いやしかし実際、誰か聞きたいと思うのって、聞いてくれる人はいる(驚)!しかもすすんで。そんな人たちがいて支えられてる、のに私はそれにうまく返せずにいたりする。

なんだか最近、もしかしたら多くの人が、人や自然や風景や自分自身に対してすら無関心なのじゃないかという疑問が浮かびそうで嫌だ。多分勘違いだと良いんだけれどね。

もやもや。

先日のノルシュテインのドキュメントを再び見てから、あの中にでてきて彼に指摘されアドバイスをもらうクリエータたちのことが他人事に思えない。

誰だったかが、この時代はすごく貧しいといってたのが頭の中でぐるぐるしてる(ミヒャエルエンデだっけ)、誰が言ったことかさえはっきり覚えていないのに強烈に頭に残って溜まったままでいる。もちろんそれを鵜呑みにしてるわけじゃない、けれど引っかかるってことは何かあるのかな。

当たり前のことを忘れてしまう・大切なことがわからないと求めていない方向にいっちゃうということが答えの一つだと思った。

混乱。何言ってるんだ・・・?
妹がうちに泊まってった。
楽しかった。翌日午前中から大切な予定があるのに気がついたら鳥が鳴き始めてた。小さな頃に「これからはひとりで寝るんだよ」と買い与えられた二段ベットの上と下で、眠りにつくまで毎日話してた。その日あったこと、考えてること、面白かったこと、悲しかったこと、学校のこと、明日のこと、ちいさいこと。それで笑ったりお互いヒートアップしちゃったりして「はやくねろー」って戸の間から漏れる光の方から父が言う。私たちは薄暗い中で野生動物みたいに息をひそめて、「そっち行っても良い?」とコソコソ声で言って(時々は勝手に)ベットをジャングルジムみたいにヒョイと行き来して一緒の布団で小さな声でクスクス喋ってた頃のこと思いだした。そして実際は歳をとったけれどあの頃と真ん中の部分は変わっていないように感じた。彼女の言い方や感じ方や考えがはっきりしているところや、ものをわきまえていてそれでも、自分の存在を誰に媚びるでもなく胸を張っていて、一方ですごく本当は繊細な部分があったり。そんな自分とは違う彼女を魅力的に思っていた。これから歳をとってもずっと姉妹でいられることが、嬉しいなぁと思う。いつかどっちが先にいなくなってもね。兄弟の未来の話をしながら、(それでも私たちはずっと兄弟だ)ってお互い一瞬しみじみとしたと思いきや、それは気のせいだったかのようにすぐに次の笑いの波に流されていった。
前の続きで思った。

ところでごはん作っても誘えない理由ってなんだ。

友だちで「うちの家族はそれぞれ食べたいものを、食べたい時間に食べるから」と言う子がいる。そうだよな、人はだいたいは食べたいものを食べるものだ。

誘う前に、相手にとってたべたいものか、くちにあうか、迷惑じゃないか...そういった不安が邪魔になる。

人は食べたいものを食べるとしたら、実家で毎日何かご飯がでてきたらすごいことだ。家で誰かがひとりで献立を立て、作り、そうやって食卓にご飯がでてくるということだもの。・・・良く考えたらすごいことじゃないか?

誰どこといことなく「きょうは何が食べたい?」といわれてなんでも良いというシーンがあると思う。これが毎日ご飯作ってくれる人からの言葉なら、普段の感謝も込めてアンコールやリクエストをする機会だ!(本当に何でも良いって時もあるんだけれどね)。

母親だって女なのだから、なんでもいいといわれたら自分をどうでもいいと思われているように感じて寂しくなるときもたまにはあるのではないか。たとえ「(君の作る料理はおいしいから)なんでも(喜んで食べるから)いいよ」という意味であっても、思ってるだけの部分は言われなくてはわからないのだ。女は言葉によっても愛されてる実感を持ちたい生き物なのだ。

実家に帰って何食べたいと聞かれたらちゃっかり毎回お願いしちゃってますけどね!(だから太る笑)家ででてくるホッケの開きとか、カレーとか、煮物でもなんでも、美味しいと思う。それが家でみんで食べてるんだからどんな外食にも比べらんないよ。

あー実家帰りたくなちゃう!笑
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